下の『下の文章を音声で聴く』をクリックすると、別のウィンドウが開いて音声が流れます。ただし、ブラウザが「マイクロソフトEdge」や
Chrome」の場合は、その仕様から画面全体が、そのまま「音声の画面」に切り替わってしまいますので、下の操作を行ってください。
 ※ブラウザが「マイクロソフトEdge」「Chrome」の場合の操作
 @「下の文章を音声で聴く」にカーソルを合わせる →  Aそのままマウスの右ボタンを押してメニューを表示する →
 B「新しいタブで開く」にカーソルを合わせてクリックする → C表示された「新しいタブ(音声のタブ)」を押す(音声が流れます) →
 Dすぐに、この画面のタブを押して、この画面に戻る
 また、@Bの操作については、Ctrlキーを押したままで下の文章を音声で聴く」をクリックしても同じ操作が行えます。
     て再生














捏造「歴史回廊」の現状】(写真をクリックすると拡大されます)
歴史回廊の外観
  国際交流広場の壁面にタイルに歴史年表や写真、解説文などを印刷して設置(貼り付け)してある。
    

◎日朝関係史(歴史年表)
  歴史事実とは違った内容(朝鮮側の解釈)が多数表記されています。
  


◎写真と解説文
 タイルに写真を印刷して、まことしやかなタイトルを付けたり、歴史事実とは食い違う説明文を掲載しています。
      


下の文章を音声で聴く←クリックして下さい(ファイル名:012rekisikairousaisyo)

 現在、問題と成っている国際交流広場内の「朝鮮人炭鉱労働者慰霊碑」の他に、壁面に設けられている「歴史回廊」の中にも史実と
異なった記述がまことしやかに記されており、この施設を見学した人々がこの間違った記述の内容を真実だと思い込まされて、母国
日本に対して自虐的な歴史観や朝鮮人への贖罪意識を植え付けられる恐れがあります。またそして、この国際交流広場の施設が
間違った歴史を証明・正当化するためのツールとして、長崎の軍艦島や捏造「従軍慰安婦」のようにユネスコなどの国際機関や
人権機関などで、韓国などに利用される可能性もあると思われます。
 これは飯塚市が市民の税金と土地を使って、日本を貶める歴史の捏造に手を貸しているのと同じですので、同施設内の朝鮮人慰霊碑
と共に正しい歴史に則った記述内容への修正または撤去が必要だと思います。

修正が必要と思われる文言
@〜Cの文章を音声で聴く ←クリックして下さい(ファイル名:013nenpyou1)

(1)日朝関係史
 歴史回廊の最初に設置されている日本と朝鮮の歴史を書き連ねている年表です。記述内容を見ると、あえて歴史的な通説を捻じ曲げて
日本の歴史を貶めようとしているようです。
 下記にある丸数字以下の記述は年表に記されている文言で、赤文字が問題があると思われる記述です。〔反論〕以下の記述は、それに対する
反論・反証を簡単にまとめたものです。

 (各写真をクリックすると拡大されます)

@、1274・1281年 元寇(文永の役、弘安の役、蒙古と高麗の連合軍が日本侵略を行う)
〔反論〕
    元寇の際には、対馬や壱岐などは占領されたものの、本土に関しては本格的に侵略される前に撃退しているので、「日本に襲来する」
    が適切だと思われます。

A、1592〜1596年 朝鮮侵略(文禄の役)  ◎1597〜1598年 朝鮮侵略(慶長の役)  
〔反論〕
    日本ではこれまで「朝鮮侵略」という言葉ではなく「朝鮮出兵」が一般的に使われているので「出兵」が適切だと思われます。

 
B、日本支配時代 
〔反論〕
    上の文言は、年表の「朝鮮」の欄に記載されています。この日本支配時代という記述は曖昧過ぎる上に「植民地支配」という言葉を
    暗に連想させます。この時の日本と朝鮮の関係は相互の話し合いによる「併合」であるので、「日本併合時代」と記述されるのが
    正しい表現だと思われます。

C、1910年  韓国併合(京城に朝鮮総督府を置き、朝鮮植民地支配の中心とした)
〔反論〕
    日本の統治は植民地支配を行ったのではなく、日本と朝鮮を対等に扱おうとした合邦や統合であるので「朝鮮地方の統治の中心
    とした」が適切だと思われます。
     韓国併合について日本国内では、「朝鮮を併合して朝鮮人を皇民とするのは皇国民の質が劣化する」という反対の意見も根強
    かったうえに、併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界から反対の意見も多かったが、防衛上必要という軍部の
    賛成意見もあった。
     ところが韓国の併合に消極的であった伊藤博文の暗殺で、日本国内の韓国併合推進派は力を得る事と成った。また韓国の
    最大政党である「一進会」も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本は韓国併合条約調印後に、多額の財政出動をして
    鉄道や道路、ダムや発電所、病院や学校などを建てる等のインフラ整備を行った。また、はげ山に植林をしたり、白丁(ペクチョン)
    という奴隷制度やシャーマン的な迷信医術も止めさせるなどの社会的な環境も改善した。そして全国に建てられた学校には実際に
    朝鮮人が通い、識字率が上がった。これらの事を考えれば、アジアで白人が行っていた、支配した人々から一方的に搾取する
    「植民地支配」とは明らかに違うと思われます。

D〜Eの文章を音声で聴く ←クリックして下さい(014tyouyoureikoufu)

D、1919年 三・一独立運動(京城で前皇帝の高宋の葬儀を機に、学生・知識人が独立宣言を発し、約二○○万人が参加したが、弾圧され、
  相当な犠牲者がでる)
〔反論〕
   歴史の資料を調べますと、これは弾圧されたのではなく、運動が時間の経過と共に暴動化したものを鎮圧されたのであり、犠牲者数や
  その内容にも大幅な違いがあります。
  この三・一独立運動の規模については、朝鮮側と日本官憲側で数字が異なっていて、 『朝鮮独立運動の血史』(東洋文庫)では3月〜5月
  に集会参加者延べ約202万名、 死傷者が7,509名、負傷者が15,961名としている。
   しかし日本警察の集計では、3月〜4月11日であるが参加人数約49万名、死者357名、負傷者802名となっています。
  この運動は最初、民族代表33人による独立運動が展開され、独立万歳運動や万歳事件とも言います。運動は次第に暴動化していった
  模様であり、その被害は、花樹里警察官駐在所で川端豊太郎巡査が石と棍棒で殺害され、耳と鼻をそぎ落とされ、陰部を切断した
  惨殺事件が起きたほか。日本人の憲兵6人と警察官2名が殺害され、放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所
  ・憲兵分隊・同分遣所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9などの被害が出ています。
   上記のように次第に暴徒化した為に鎮圧されているようなので、「暴徒化したために鎮圧され、その際に双方に犠牲者が出た」が公正な
  表現だと思われます。

E、1937年 皇民化政策強まる(一村一神社、神社参拝、日の丸掲揚、皇国臣民の誓詞斉唱・創氏改名の強制)
〔反論〕
   創氏改名は強制ではなかったので「強制」は削除が望ましいと思われます。 皇民化政策は当時の西洋列強が行っていた植民地政策
  とは違い、言語や習俗に共通性を持たせて他民族との融和を図り、日本国民として対等に扱おうとしたものです。この神社の建立や参拝、
  日の丸掲揚、皇国臣民の誓詞斉唱は、当時の日本でも行われていた事であり、併合された朝鮮半島で行われることは当然のことだと思い
  ます。
   創氏改名とは、当時の朝鮮には家族名という観念が無かった為に夫婦別姓でした。 そのため戸籍などの管理が日本の法律環境に
  なじまない事や、商売上、日本名の方が有利などという理由で朝鮮人の中に日本名を希望する者もいた為に「姓」とは別に家族名である
  「氏」(朝鮮の苗字でも可)を創設することにしました。これが「創氏」です。
   この創氏によって朝鮮人は祖先からの「姓」、(金・朴・李など)と家族名を表す「氏」(金田や木下など)という二つの苗字を持つ事になりました。
  しかし、実生活ではこれまでのように朝鮮名が使われており、日本名が使われたのは法制度上の手続きの時や商売上で日本名を出した
  方が有利であると思われた場合などです。ですので「創氏改名」によって朝鮮名が奪われたというのは、まったくのデタラメです。 
 (例)金正恩が創氏によって金田を登録した場合、法制度上の本名は金田正恩です。よって金正恩と金田正恩という二つの名前を持つ事に
   なったのであって、朝鮮名が奪われた分けではありません。
  
   この創氏には、「設定創氏」と「法定創氏」があり、「設定創氏」とは1940年2月から 8月までの期間中に、自治体役場の窓口に自分で定め
  て届け出された「氏」である。この「設定創氏」には日本風の氏の届け出が多かったが、「林(リム・イム)」を「林(は やし)」、「柳(リュ)」を
  「柳(やなぎ)」と朝鮮姓をそのまま日本語読みで届け出る者もいた。最終的には朝鮮全戸の約8割が届け出たされている。
   一方、「法定創氏」とは、「設定創氏」を届け出なかった者に、今までの朝鮮名(姓)のままで自動的に付与された「氏」である。このため
  当時の朝鮮人には日本風の苗字(氏) と朝鮮本来の苗字(姓)の二つを持つ者と、朝鮮本来の姓を「氏」として持つ者がいた。このように
  「創氏」には義務としての法的な強制力があったが、朝鮮名を日本名への変更は法的な強制力を伴ったものではなかった。
   一方「改名」については、姓名の変更には裁判所の許可が必要であったが、これを届出のみで変更できるよう、創氏と同時に法制化
  されたものが改名である。実施期間の定めは無く、そのため設定創氏の届出期間経過後も、朝鮮式の名を比較的簡易な届出で日本名に
  改名することが可能になった。改名は任意とされていたため、提出書類は「改名許可願書」と題され、また当時としては安くない1人50銭の
  手数料が必要であった。

F〜Iの文章を音声で聴く ←クリックして下さい(ファイル名:015 tyouheisei)

F、1939年 第二次世界大戦始まる 国民徴用令公布(強制連行の開始)
〔反論〕
    国民徴用令は強制連行とはまったく関係なく、朝鮮半島では1944年9月より実施され、職業紹介や募集、または人員の地域割り当て
  によって徴用がなされたものであり、国民の義務としての徴用なので強制連行とは意味合いが違います。よって「強制連行の開始」は
  削除が必要です。
   国民徴用令とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の勅令です。 一部地域では白紙などと呼ばれていました。
  1939年(昭和14年)7月より、日本内地で実施されました。これは戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的
  に人員を徴用できる権限を与えたもので、当初は申告を義務づけられた職種の技能技術者を対象とし、職業紹介・募集などで重要産業
  に人員を確保できない場合は、総動員業務を行う官庁の請求により、必要に応じて徴用がなされることになっていた。
   1944年(昭和19年)8月8日、「国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する」とした閣議決定がなされ、1944年9月より実施
  され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されましたが、日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の
  連絡船がアメリカなどの潜水艦の攻撃で運航が困難になるまでの実質7ヵ月間であった。

G、1941年 太平洋戦争始まる
〔反論〕
   太平洋戦争という表現は、米国から見た戦争の呼称であるので、この下に日本での呼称の「大東亜戦争始まる」を追加すべきです。

H、1943〜1944年 朝鮮、戦後の独立了承(カイロ宣言)、学徒勤労動員、徴用、学徒出陣、学童疎開、朝鮮にて徴兵制布かれる
〔反論〕
   戦時中の朝鮮半島での兵士募集は、志願兵が主で徴兵ではない。1944年から徴兵も実施されたが、実戦に投入される前に終戦を
  迎えているのが真実です。しかしこの表現だと、朝鮮人も徴兵されて戦争に参加したような誤解を生むと思われますので、これの後に
  「朝鮮人男子の一部は徴兵されたが、終戦と成ったために実戦には参加していない」と追記をするべきだと思います。またさらに、下記
  のように志願兵や軍属として日本の為に戦った朝鮮人がいる事も記するべきだと思われます。
  1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集した。1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名
    に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した。ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。尚、1944年4月の
    法改正によって1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に
    終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった。

I、1945年 原子爆弾投下(広島8・6、長崎8・9) 日本ポツダム宣言受諾、無条件降伏、朝鮮開放(8・15民族光復)
〔反論〕
   この「朝鮮開放」という文言がなぜ問題かと言うと、当時の朝鮮半島は8月15日の日本の敗戦によって日本の併合から切り離され、その
  あとすぐに米国とソ連によって軍政下に置かれています。よって朝鮮が解放されたわけではないので、歴史的な事実とは一致していま
  せん。その故、歴史的な観点から見た「日本の統治が終了」と記すのが正しいと思われます。日本の統治が終了後の当時の状況は、
  以下の通りです。
   日本の降伏後。連合国側は朝鮮を米英中ソの4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境とした
  アメリカ及びソ連の分割占領に至った。ソ連軍はアメリカ軍より早く朝鮮への進駐を開始し、8月26日までにソ連軍は平壌進駐を終え、
  朝鮮総督府の行政機関の存続を認めると布告したが、このことが朝鮮人の不興を買い、また実際に行政機能が失われていることを知って、
  これをすぐに取り消した。
   9月7日、アメリカ軍が進駐を開始し、9月11日にアメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの
  解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカ
  が軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き用いたことが大きな反発を生み、ソウルの
  政治情勢は乱戦模様を呈した。


(2)タイルに記された問題が有る文章
@〜Dの文章を音声で聴く ←クリックして下さい(ファイル名:016tairunomongon)

 日朝関係史の年表に記されている以外にも、壁面に設置されているタイルの文章の中に、歴史の事実とはかけ離れた内容が記されて
 います。これも併せて修正が必要と思われます。

@、「無窮花(ムグンファ)の想い」というタイルに記されている問題の文章
 (各写真をクリックすると拡大されます)
 上から4行目の
「日本の植民地支配時代主権を奪われた朝鮮人民は自らをムクゲに置き換え、不屈の魂をこの木と花に見立てました。」
〔反論〕
  先述の日朝関係史のCで解説されているように、朝鮮半島の統治は併合であって植民地支配ではありません。また、戦争や威圧で
 「主権を奪われた」のではなく、日本国と大韓帝国の話し合いによって併合が実現しており、また、諸外国(欧米列強国)も承認しているので、
 この部分は削除または「日本への併合時代、朝鮮人民は自らをムクゲに置き換え、・・・・」との修正が必要です。

A、「郷土の遺跡にみる、朝鮮半島との交流」というタイルに記されている問題の文章

上から3行目の
「また、本市幸袋には朝鮮から連行された陶工である高取焼初代八山の墓石があり、多数の陶磁器が出土しています。」
〔反論〕
  「朝鮮から連行された・・・・」の連行には、強制的な意味合いがあるので、強制性が証明できないならば「連れて来られた」と修正が
 必要です。下記のMのタイルに記されている記述に統一した方が良いと思われます。

B、「豊臣秀吉の朝鮮侵略」というタイルに記されている問題の文章

先頭行から
「豊臣秀吉の侵略戦争は1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の二度行われました。この侵略は朝鮮国土を荒廃させただけではなく、
豊臣政権自身の衰退と東アジア情勢を一変させる結果になりました。」
〔反論〕
  日本においては「朝鮮出兵」と成っているので、「侵略戦争」を「朝鮮出兵」に、「侵略」を「出兵」と修正すべきと思われます。また、「東アジア
 情勢を一変させる結果となりました」と記載されていますが、何を指しているのかが不明確で、これについては、それに該当するべき歴史的な
 事象が見当たらない様ですので、それを示す事柄とその事実が証明されない限り削除するべきと思います。
 
C、「朝鮮半島からの文化移入」のタイルに記された文言

 先頭行から
 「秀吉の諸大名が連れて来た人々の中には、陶磁器を生産する技術者や、その後の日本人の思想に影響を与えた学者たちがいました。」
の文から、上記のKの「朝鮮から連行された」は「連れて来られた」で統一した方が良いと思います。

D、「関東大震災と朝鮮人」というタイルに記されている問題の文章

上から4行目の
「震災直後から、東京中心に朝鮮人暴動の流言飛語が広がり、日本人自警団や軍隊などによって朝鮮人の集落が襲われ、多数の死傷者を
出しました。」
〔反論〕
  関東大震災が発生した後の新聞の報道を見ると、流言飛語ではなく実際に朝鮮人達が 集団で放火や略奪、強盗や強姦などを行って
いたことが分かります。そのために被災 した住民は自警団を作り自衛に務め、警察はもちろん軍隊まで出動して、治安を維持 しようと
朝鮮人達が起こした暴動の鎮圧に努力していた。勿論、その中でいくつかの誤認によって朝鮮人側に死傷者が出たのかもしれませんが、
それを遥かに上回る被害 が住民側に発生していたという事です。よって上記の文章は、『震災直後から、東京を中心に各地で朝鮮人達
による放火や略奪などの暴動が発生したために、自衛を迫られた日本人住民は自警団を作り自衛に務めた。また、警察や軍隊も出動して
朝鮮人達による暴動の鎮圧に務めた。尚、この混乱の中に巻き込まれて、暴動とは関係なかった朝鮮人にも誤認による死傷者が出た。』
と修正するべき だと思います。

関東大震災発生後の朝鮮人の犯罪を報道した新聞を集めたサイト
http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html
        

E〜Mの文章を音声で聴く ←クリックして下さい(ファイル名:017owarimade)

E、「皇国臣民の誓詞」というタイルに記されている問題の文章


先頭から
植民地時代、日本は、朝鮮民族を日本人と同じ忠誠を誓わせるために「皇国臣民の誓詞」を唱えさせました。創氏改名によって朝鮮名を
奪い日本名に変えさせたり日本語しか使わせなかったばかりでなく、神社を建ててお参りをさせたりして、信仰や風俗・習慣まで自由に
させませんでした。」
〔反論〕
 (1)、まず最初の「植民地時代」を「日本の統治時代」または「併合時代」との修正が必要です。(日朝関係史のCを参照)

 (2)、創氏改名については、(1)日朝関係史の「1937年 皇民化政策強まる」の箇所で説明したように創氏改名は強制的に日本名に替え
     させるものではありませんので、「朝鮮名を奪い、日本名に変えさせたり、」の文章は、「創氏改名によって朝鮮名と日本名を持つこと
     と成った。」などと修正する必要があります。

 (3)、「日本語しか使わせなかった」というのも事実と異なります。現実的に考えて、朝鮮人達が、それまでなじみの無い日本語で急に話しを
     したり、書いたりする事は無理である。また当時、二千万人以上いた朝鮮人が朝鮮語を話していないかと監視するのも不可能な事である。
     そして次のF「炭鉱での過酷な労働」というタイルの先頭行に「言葉の通じない日本の炭鉱で・・・・」と自分達で、この事が嘘だと自白して
     います。
      また、日本による併合は35年間に及んだのですから、生れてから最大で35年間、日本語しか使えないのであれば、現代の朝鮮半島の
     韓国朝鮮人は、日本語が母国語になっていると思われます。なのにそうなっていない事実を見れば「日本語しか使わせなかった」の文言
     は完全に嘘であり削除が必要です。

 (4)、「信仰や風俗・習慣まで自由にさせませんでした」という文章にも問題があります。 当時の朝鮮半島には、仏教・儒教・キリスト教・天道教
     ・巫俗(ムーソク)などのたくさんの宗教や信仰がありました。仏教は日本が併合する前の李朝朝鮮時代には弾圧をされていたので、むしろ
     日本統治下になって弾圧が無くなり、日本の仏教界との交流なども進み、宗教としての力を取り戻しました。
      天道教(東学)は、主に農民に受け入れられていた宗教で、東学党の乱で有名です。この宗教も李朝朝鮮時代の末期に厳しい税の取り
     立てや官僚の汚職に反発して乱を起こしたために弾圧を受けました。併合される前に、この東学より派生した親日的な「一進会」が日韓
     併合での重要な役割を担いました。
      キリスト教は日韓併合下では、外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになりました。その為に日本政府との対立が起こり、
     併合時代に総督府が進めていた神社参拝でも対立が起きています。
      尚、日本政府が朝鮮半島の各地に神社を造り、そこへ併合された朝鮮人を参拝させたのは、日本人として、また皇国民の一員として
     日本の風俗習慣に馴染んでもらうためには当然の事であり。当時の日本国内にも神道だけではなく、仏教やキリスト教などの各宗教が
     存在していたのですから、もし朝鮮半島に一定の宗教だけを押し付けようとすれば、その他の宗教から非難や不満が出る事になります。
     それらの事を考えれば、朝鮮半島に一定の宗教を押し付けるなどという事はできる分けが有りません。また、明治憲法にも「日本臣民
     ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と有り、明治憲法は併合された朝鮮半島にも効力が及ん
     でいました。
      ただし、朝鮮半島において日本が禁止した原始的な風俗習慣は多かったようです。代表的なものは、奴隷制度(白丁)、試し腹、拷問、
     病身舞、シャーマニズム的な 迷信医療などです。この様な理由から、「信仰や風俗・習慣まで自由にさせませんでした」との文章は、
     事実と異なるので削除するべきです。

F、「炭鉱での過酷な労働」というタイルに記されている問題の文章                                
    

先頭行から
「言葉の通じない日本の炭鉱で、朝鮮人労働者たちの多くは坑内の最深部で労働をさせ られました。粗末な食事や長時間労働など、
労働の実態は大変過酷なものでした。」
〔反論〕
言葉の通じない日本の炭鉱で」、と自分達で先述した「日本語しか使わせなかったばかりではなく」の部分が嘘である事を自白しています。
  また、当時の炭鉱労働は、産出した石炭の量で賃金が上下する出来高制というのが一般的だった上に、当時は、手掘りであり、作業の
熟練度がその生産性を決めるので、最深部の石炭掘りの作業は熟練抗夫が行っていました。
 筑豊地方の炭鉱で働いていた女性たちの思い出を綴った『炭坑美人』という本には、中小の炭鉱では、夫と妻、または父親とその息子や
娘という、家族でのペアで働いていた事。力の強い男が石炭を掘り、その掘り出された石炭を妻やその子供たちが運搬していた事。そして
終戦間近の頃には、日本人男性の人手が足りなかったので、それまで掘り出された石炭を運搬していた女性などが石炭を掘り、それを朝鮮
半島から徴用されて来た朝鮮人が運搬していた事などが書かれています。
  もし仮に、慰霊碑に記されているように、炭鉱での経験も無く、無理やり連れて来られて労働意欲の薄い朝鮮人労働者を最深部に入れて
作業させても、生産性はむしろ下がると思われます。特に当時は戦時中であり、燃料としての需要も高かったので、政府は石炭の増産をさせ
ていました。
 そしてそれを請け負っていた炭鉱会社もそのような非効率な人員の運用はしなかったであろうし、出来高制で給金を稼いでいた日本人労働者
にとってもそれは迷惑な事であり、そのような事はさせなかったと思われます。
  確かに炭鉱労働は二交代制などの長時間に及び、過酷な労働だったようですが、それは日本人の労働者も同じでした。また、食事につい
ても戦時中は食糧難でもあり、食糧事情が悪いのは当たり前ですし、日本人もそれは同じでした。
  下の記事は、伯父が筑豊炭田で働いていたという李大一さんと元炭鉱会社社員の田中好子さんのインタビューです。ここで李さんの
父や伯父は、日本の兵隊ではなく、テグの朝鮮人村長の命令で、無理やり自分たちの意に反して本土に連れて来られた」(村長の命令で
無理やり日本に行かされた)と証言しています。 即ち、軍による強制連行ではなく、徴用としての責務から、自分の思いに反するけれども
日本に来させられたということです。
  @、産経新聞『朝鮮半島関係者が証言 強制でなく「職探しも」』
       http://www.sankei.com/life/news/150621/lif1506210037-n1.html
  A、韓国難癖に違和感「被害ばかり強調」「『朝鮮の人』への差別なかった…」89歳元炭鉱社員が証言
       http://www.sankei.com/life/news/150621/lif1506210035-n1.html

G、「強制労働の実態と朝鮮人争議」というタイルに記されている問題の文章
 

上から2行目の
「新聞記事は、1993年(平成5年)に福岡県立図書館で発見された「知事引継書」です。この記事によると、炭鉱ごとの募集人員、朝鮮人抗夫
の逃亡が半数を超すなど、当時の過酷な労働実態を伝えています。1932年(昭和7年)の夏、筑豊の炭鉱で働く朝鮮人労働者たちが不当な
差別に耐えきれずに立ち上がり、企業側に「安い賃金」「長時間の労働」「大納屋制度」を改めるよう要求書を差し出し、ストライキをして闘い
ました。筑豊の各ヤマ(炭鉱)に広がった争議は3週間にわたって続き、多いときには約千名もの朝鮮人が集まり、遠賀川河川敷(飯塚市)で
野営を張りました。このとき、嘉穂水平社が大八車に炊き出し用の米を積み、救援に駆けつけました。」
〔反論〕
  上記の記事は、1932年(昭和7年)の物であり、戦争時の物ではない。昭和7年当時は 徴用ではなかったので、強制性は存在していません。
 またこれは、「不当な差別」によるものではなく、待遇改善を求めるストライキや労働争議であり、河川敷でテントを張るなど、会社の宿泊所
(大納屋)への出入りが自由だったという事も証明していると思われます。即ちこの記事は、強制労働ではなかった証明であるのに、
 あえて題名に「強制労働の実態」という言葉をいれた印象操作だと思われます。よってタイルの題名を「炭鉱労働と朝鮮人の労働争議」へ、
 「不当な差別に耐えきれずに」を「待遇改善に」への修正が必要です。
 
H、「徴用で集められた朝鮮労働者」というタイルに記されている問題の文章


「徴用は強制連行のものもあった。」(写真の下に記された補足文)
〔反論〕
  徴用は、国家によって強制的に人員を徴集するものではあるが、その徴集が強制連行などであれば、強制連行した場所から輸送中の
 警備が必要な上に、著しく労働意欲に欠け、また逃亡をさせないための施設を造り、常に暴動や逃亡を警戒して四六時中かなりの数の
 監視員や警備員を配置して警戒せねばなりません。この様な効率の悪い事をするよりも、高給で募集をかけて人員を揃えた方が遥かに
 生産性も上がり、コスト的にも安価に済むと思われます。
  戦時中に自ら三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために選考試験
 を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、
 休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している。この証言を打ち消す「明確に
 強制連行が有ったとされる証拠」が出て、日本政府がそれを認めない限りは、この「徴用は強制連行のものもあった」という文章は削除する
 べきです。
  
I、「八幡製鉄所と強制連行」(写真に付された題名)


〔反論〕
  船と多くの人々が写った写真に「八幡製鉄所と強制連行」という題名が付されてあります。その下には「八幡製鉄所と強制連行(八幡製鉄
 の元徴用問題を追及する会)帰国する人々」との説明文が付けられている。これは、徴用=強制連行という印象操作を狙ったと思われるので
 削除または、「八幡製鉄所と朝鮮労働者」に修正されるべきです。


J、「敗戦と朝鮮の人々の帰国」というタイルに記されている問題の文章


先頭行から
「1945年(昭和20年)8月15日、朝鮮人解放の日を迎えました。母国に帰るために、各地の港に多くの朝鮮人達が集まりましたが、船舶の事情でなかなか帰国することができず、生活のためにいったん港を離れ、その後、日本にとどまらざるを得なかった人たちも多くいました。」
〔反論〕
  この文章は「朝鮮人解放の日」という言葉を入れる事によって、日本によって朝鮮人の自由が奪われ抑圧されていたという印象を与える
 ような言葉です。よってこれは「朝鮮人が帰国する日を迎えました。」と修正するべきです。
  また、最後の「その後、日本にとどまらざるを得なかった人たちも多くいました。」 という文章は、何か日本側に問題や責任があり、自分たち
 の意思に反して帰国できなかったような印象を匂わせているので、下記にある外務省の主張に沿って、「・・・・生活のためにいったん港を
 離れ、船便を待ち帰国する者もいましたが、それ以外の者たちは、自分の意思で日本にとどまりました」と修正するべきと思われます。
※外務省の主張
1、1945年8月から1946年3月までに、帰国を希望する朝鮮人は日本政府の配船によって、約90万人、個別的引揚げで約50万人、
  計約140万人が朝鮮へ引揚げ、また復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
2、1946年3月、連合国最高司令官の指令に基づき残留朝鮮人約65万人について帰還希望の有無を調査。帰還希望者は約50万人
  ということであったが、実際に朝鮮へ引揚げたものは約8万人にすぎず、「残余のものは自から日本に残る途をえらんだ」。

K、「ボタ山と無縁墓地」というタイルに記されている問題の文章
     

先頭行から
「かつて筑豊には500近い大小の炭鉱がひしめき合い、強制連行されてきた朝鮮人や中国人、連合軍の捕虜など約15万人が強制労働
させられていました。」
上から6行目
「下段左(写真の位置):同じく穂波町忠隈のボタ山中腹にある無縁墓地の一角に、炭鉱で亡くなった朝鮮人抗夫の墓があります。 ボタ石を
墓石の代わりとし、その下には遺骨が眠っています。
 下段右(写真の位置):田川郡添田町にある朝鮮人抗夫の無縁墓地
古い時代から続いた地元の日本人墓地の片隅に37個のボタ石が整然と並べられていた目印だけの墓地」
〔反論〕
  「強制連行されてきた朝鮮人や中国人、連合軍の捕虜など約15万人が強制労働させられていました。」とありますが、その証拠と成る
 一次資料は、この歴史回廊が計画された時点で飯塚市側に示されいるのかと市の担当課へ問いましたが、提出されてはいませんでした。 
  また、ムグンファの会の理事長は昨年の10月、我々に対して12月末日までに「15万にの強制連行」についての証拠を市役所の方へ
 提出すると言われましたが、今年の1月の時点ではまだ提出されてはいません。
  そして「ボタ石を墓石代わりとし、その下には遺骨が眠っています。」という文章の 真偽も市役所の担当課へ問いましたところ、やはり市の
 方では、そのような事実は掴んでいないとの事でした。また、「朝鮮人抗夫の無縁墓地」の件についても同様の回答でした。
  もし、これが本当の事ならば飯塚市としては、これらの墓から遺骨を掘り起こし、直ちにムグンファ堂へ納骨をして慰霊をしなければなりま
 せん。しかし、これが事実ではないと成れば、この件は日本人が如何に朝鮮人を非人道的に扱っていたかという印象を与えるための印象
 操作だと言えます。この問題をこのまま放置しておけば、長崎県の軍艦島の件や捏造「従軍慰安婦」のように、いずれは韓国などによって
 利用されて、国連の人権機関やユネスコなどで取り上げられかねません。
  もしそうなれば世界の中で、飯塚市民全体が恥をかき、市のイメージにも重大なダメージを与えかねません。また、これらを放置していた
 事が日本中からの非難にも晒される事にも成りかねませんので。この件については予算を取ってでも事の真偽を早急に調査するべきだと
 思います。

L、「日韓・日朝人民の友好親善を深めよう」というタイルに記されている問題の文章


先頭行から
「日本の近代において、韓国併合以来36年間もの長い間、朝鮮を支配した歴史をかえりみたとき、私たちにできることは南北朝鮮の統一
を願い、日韓・日朝の友好親善を深めることです。」
〔反論〕
  これもあえて「支配した」という言葉を使う事によって、「植民地支配」という言葉を 匂わせている印象操作と思われますので、当時の歴史的
な事実から「支配した」から「統治した」に修正した方が良いと思われます。

M、「益山市(イクサン)と飯塚市「国際交流広場」での追悼式」というタイルに記されている問題の文章


3行目の
「強制連行犠牲者の遺骨が市民の手で遺族のもとに返されたのは、戦後初めてです。」
〔反論〕
  これまでの説明で証明されたと思いますが、徴用で来た朝鮮人労働者が、何の一次的な証拠も無いのに強制連行の犠牲者とされて
 います。上記の「強制連行犠牲者の遺骨が市民の手で遺族のもとに返されたのは、・・・・」は、「不幸にして事故や病気等で亡くなった
 朝鮮人炭鉱労働者の遺骨が、市民の手で遺族のもとへ返されました」のような文章に修正するべきだと思います。
 ※また、このムグンファ堂に納骨されているとされる方達の名前が本当に存在したものなのか?  そして納骨されている骨が本当にその
   本人の物なのか?の調査も必要と考えます。(納骨されている骨の中には「子供の骨」の他にも「動物の骨」も混じっているのではないかという
   噂も有りますので、この件の真偽を確認する必要があります)

           


ページのトップへ